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食文化

ラーメンという「地方料理」——戦後の水と小麦が作った味の地図

札幌に行けば味噌。博多は豚骨。喜多方は早朝の醤油。和歌山は豚骨醤油。久留米は博多より濃い豚骨。家系は横浜。ラーメンを地域名とセットで呼ぶ習慣は、日本に住んでいればほぼ無意識に身についているが、よく考えると奇妙なことだ。パスタを「ナポリ風」「ボローニャ風」と区別するのと同じ厳密さで、日本人は自国の麺料理を何十もの地方変種に分類している。しかも、その多くが戦後の、それも比較的新しい発明である。

ラーメンはいつから「日本料理」になったのか

カリフォルニア大学の歴史家ジョージ・ソルトが2014年に出版した『The Untold History of Ramen』は、ラーメンをめぐる通説を相当ひっくり返した一冊である。同書が示すのは、現在のラーメンの原型が確立したのは20世紀初頭の横浜・東京の中華料理店であり、「国民食」としての地位を得たのは戦後、それも1950年代以降だという事実だ。

鍵になったのはアメリカの食糧援助である。敗戦直後の日本は深刻な米不足に苦しんでおり、GHQは小麦の大規模輸入を推進した。学校給食にパンが入り、街角に小麦粉を大量に消費できる屋台が増えた。ケンブリッジ大学のバラック・クシュナーも『Slurp!』(2012) で同様の分析を示している。ラーメンは、余剰小麦を日本人の口に運ぶインフラの一部として広がった側面がある。

地域差は戦後に生まれた

「ご当地ラーメン」という語彙が全国区で使われるようになるのは、もっと後のことだ。新横浜ラーメン博物館の展示資料によれば、1950〜60年代の各地の屋台ラーメンは、現在のような「明確な地域スタイル」として認識されていたわけではない。味噌ラーメンは札幌の「味の三平」が1955年頃に始めた一店舗の試みから広がったもので、70年代までは「北海道の郷土料理」と呼ばれるほどの地位にはなかった。

興味深いのは、地域差の物理的な根拠である。九州の豚骨ラーメンが濃厚で白濁した色をしているのは、煮干しや昆布が手に入りにくかった戦後の九州で、安価に大量に手に入る豚骨を長時間煮る手法が定着したためだ。関東の醤油系が澄んだスープを志向したのは、都市部で買える鰹節と醤油の組み合わせが前提だった。つまり、ラーメンの地域差は「伝統」ではなく、戦後経済のロジスティクスの結果として生まれた面が大きい。

「ご当地」という商品化

ご当地ラーメンを全国的な観光資源として位置づけ直したのは、1990年代以降の動きである。1994年開館の新横浜ラーメン博物館は、その象徴的な装置だった。「全国各地の有名店を一箇所で食べ比べる」というコンセプトそのものが、ラーメンを地域アイデンティティの表象へと変換する役割を果たした。

2000年代に入ると、自治体が「ご当地ラーメン」を観光戦略として意識的に売り出すようになる。青森の「味噌カレー牛乳ラーメン」、徳島の「徳島ラーメン」など、地域特産を活かした新種が次々と「発掘」された。「発掘」と括弧つきで書いたのは、その多くが既存店の一メニューを自治体が地域の顔としてマーケティングし直したものだからだ。

海外へ

2010年代以降のラーメンの海外展開は、この「地方料理としてのラーメン」という構造をそのまま輸出している。ニューヨークやロンドンのラーメン店は、単に「日本料理」ではなく「博多式」「札幌式」と自ら名乗ることが多い。スペシャリティ・コーヒーが産地のテロワールを売るのと似たロジックで、ラーメンは都市ブランドを売っている。

農林水産省が把握する海外の日本食レストラン数は過去10年で急増しており、ラーメンはそのなかで寿司に次ぐ主力ジャンルになっている。日本ラーメン協会の報告書も、海外出店の増加傾向を継続的に記録している。

編集部の見方

「ラーメンは日本の伝統料理だ」という言い方には、いくつかの留保が必要である。日本で広く食べられるようになってから70年ほど、現在の地域差が明確化したのはさらに新しい。この歴史の浅さは弱点ではなく、むしろラーメンの強さの源泉だと思う。固定された正統性がないからこそ、各店主が工夫し、各地域が個性を主張でき、海外展開時にも柔軟に適応できる。

その意味で、ラーメンは和食の反対側にある存在だとも言える。2013年にユネスコ無形文化遺産に登録された和食は、季節性や「一汁三菜」といった形式美を特徴とする(これについては和食がユネスコに登録されて10年——「一汁三菜」は家庭に残ったかでも扱っている)。一方、ラーメンは形式ではなく、変異そのものがアイデンティティになっている料理だ。どちらが「日本的」かと問うよりも、両方が同じ戦後日本から出てきたことに意味があると考えたほうが、見通しは良くなる。