「あなたの宗教は何ですか」と日本人に尋ねたとき、6割前後が「特になし」あるいは「無宗教」と答える——これは複数の世論調査がほぼ一貫して示している数字である。ところが元日に出勤前の電車で神社に寄る人、七五三で子どもを連れて参拝する家族、新築の地鎮祭に神職を呼ぶ建設業者は、減るどころかむしろ安定している。本人が「自分は無宗教だ」と思っていることと、実際に宗教的な行為を日常的に行っていることが、矛盾なく共存している。この一見不可解な状態を、どう理解すればよいのか。
数字は二つの方向を指している
文化庁が毎年発行する『宗教年鑑』は、各宗教法人の申告に基づく信者数を集計している。その合計は日本の総人口を大きく超える——神道系の信者が約8千万人、仏教系が約8千万人、ダブルカウントが当然のように発生する。一方、NHK放送文化研究所が5年ごとに実施する『日本人の意識』調査では、自分を「信仰している」と答える割合は3割弱、「無宗教」と明示的に答える割合は増加傾向にある。
この数字の乖離は、調査手法の問題というよりも、日本社会が「宗教」という語を受け取る仕方そのものを反映している。神社の氏子に数えられているが、本人は「自分は信者ではない」と思っている——この組み合わせが、統計上は当たり前のように成立する。
ブリーンとテーウェンの視点
オックスフォード大学とオスロ大学の日本宗教史家、ジョン・ブリーンとマーク・テーウェンが2010年に共著した『A New History of Shinto』は、神道を「教義の体系」としてではなく「場所と実践の集積」として読み直した一冊として知られる。同書の主張を乱暴にまとめれば、神道はそもそもキリスト教やイスラム教のような「信じるか信じないか」の宗教として設計されていない、ということになる。
ブリーンらの視点では、多くの日本人が神社で行っているのは教義の承認ではなく、特定の場所で特定の所作を行うことそのものだ。お賽銭を入れ、二礼二拍手一礼をするとき、人は神道の神学的命題を受け入れているわけではない。受け入れているのは、その一連の動作が適切である、という場所の文化的プロトコルに過ぎない。これは「宗教」というより「作法」に近い。
日常に埋め込まれた接点
神社との接点は、日本人の生活のなかに断続的に埋め込まれている。初詣、七五三、成人式、厄除け、合格祈願、新車のお祓い、会社の創立記念参拝、地鎮祭、上棟式、お守り。これらは必ずしも継続的な「信仰生活」を構成するわけではないが、人生の節目や重要な判断の前に参照される一種の文化的リソースとして機能している。
國學院大學日本文化研究所が公開している資料によれば、全国の神社数は約8万社、うち宗教法人格を持つものが多数を占める。コンビニより多い。この物理的な遍在性が、日常的な接点の頻度を保証している。駅前の小さな神社に一年に一度、それも5分だけ立ち寄ることを、多くの日本人は「自分は無宗教だ」という自己認識と矛盾なく両立させている。
地域差という変数
この状況にも地域差がある。首都圏の若年層では、神社との接点は初詣と七五三程度に縮小する傾向がある一方、関西や北陸の一部では、氏神との定期的な関わり——春祭り・秋祭りへの参加、祓いを受ける習慣——が世代を超えて継承されているケースも少なくない。同じ「日本人の神社観」を語るときにも、どの地域のどの世代を念頭に置くかで、見える風景はかなり違う。
イギリスの宗教学者イアン・リーダーは『Religion in Contemporary Japan』(1991) で、都市化が進むなかで宗教的実践が縮小するという欧米型の想定が、日本には単純には当てはまらないことを指摘している。むしろ日本では、家族単位で継承される実践が個人単位の選択に移行する過程で、儀礼そのものは消えずに商業サービスとして再構成されている——という観察は、30年以上経った現在のほうが当てはまりが良い。
「世俗化」と呼ぶかどうか
社会学では長らく、近代化が進むと宗教の影響力が減る「世俗化(secularization)」が進むとされてきた。だが日本の事例は、この理論を単純には支持しない。教義的な意味での宗教への関与は減っているかもしれないが、儀礼的な接点はむしろ商業化を通じて強化されている面もある。厄除けは専門業者のサービスとなり、神前式はブライダル産業の柱の一つになり、お守りはデザイン性を増して通販でも買える。
これを「日本は世俗化していない」と見るか、「日本は独自の形で世俗化している」と見るかは、研究者によって立場が分かれる。だが少なくとも、欧米で想定された「教会離れ → 非宗教的社会」という直線的な経路とは異なる軌道をたどっていることは、データが示している。
編集部の見方
「日本人は無宗教なのに宗教的である」という言い方は、それ自体が欧米的な宗教概念——つまり教義への帰依を基準にする捉え方——を前提にしているから生じる違和感だと思う。基準を「実践への参与」に置き直せば、日本人は十分に「宗教的」だ。基準を「教義の受容」に置けば、確かに希薄である。どちらの基準が正しいかを決めるより、この二重性そのものが日本の文化的特徴だと受け取るほうが、理解の見通しは良くなる。
同じ構造は祭りにも見られる。人々は信仰のためではなく、地域の一員であるためにだんじりを引き、山笠を担ぐ。この文脈については祭りは地域をつなぐ装置か、観光資源か——過疎化時代の民俗行事でも触れている。